†Baba wa taifa†
〜今は亡きジュリアス・ニエレレ元大統領に捧ぐ〜

1999.12.25


おかたかより

旅行で気分もリフレッシュ。
10月14日。ジュリアス・ニエレレ元タンザニア大統領が亡くなりました。
日本で当てはめると、昭和天皇が亡くなったときのような騒ぎでした。
さりとて暴動などは無いものの、またタンザニアの一大事に遭遇したなぁと思います。

Baba wa taifa:スワヒリ語で"国家の父"


 旅行帰りは気が抜ける

 クローブの収穫も終わり、"おかたか"も帰ってきたのでさて後半戦と思いきや、9月の頭に行なうはずだった中間試験が延期になったので今やるという。"おかたか"は授業がないので旅行前に行なった試験の採点を続ける。先生になって始めて分かったが、テスト作りと言うのは難しい。筆記の他に実習もやらせたので、判定基準があやふやになってしまった。出来は悪い。自分の教え方のせいだと反省。

 旅行の報告書を書き、その勢いでエアタンにクレームをつけるためのレターも書いた。翌日、エアタンに損害賠償の請求に行った。荷物を紛失している期間の賠償はその場で受けれるとのこと。なんでルサカで貰わなかったのか聞かれた。世の中どうなっているんだか分からん。一応本部には送ってくれるとの事だったが、もうこりゃ帰ってこないな。良い勉強になった。

 ある日の夜、懐かしい、しかし絶対に連絡をよこしそうに無い旧友から国際電話。こりゃ驚いた。嬉しいもんだ!少し話をしてみんな元気そうで良かった。

 

 10月14日、ニエレレ元大統領が亡くなる

 この日"おかたか"はいつも通り授業をしていた。久しぶりに生徒も集中していて良い感じで授業が進んだが、ここでニュースが入る。ニエレレ元大統領が亡くなったとのこと。生徒の落ち着きもなくり、授業は中断した。
 ここで書いて良いものか判断がつかないが書いてしまう。実はニエレレしはイギリスですでに亡くなっていて、協力隊員には大使館経由であらかじめ通達があった。14日はタンザニアの正式発表の日である。職員室に向かい、他の先生になにか後日あるのか聞くと、今はまだ分からないと言う。タンザニアではこう言う出来事があると学校が1ヶ月くらい休みになると言う話も聞いていた。来年大統領選挙もあるので少し政情不安定になるかもしれない。家に帰る途中にバスケットチームのコーチにあって、今日の練習はないと伝えられた。

以下、とある新聞の記事:

 東アフリカのタンザニアのジュリアス・ニエレレ元大統領が14日、入院先のロンドンの病院で白血病のため死去した。77歳だった。同国のムカパ大統領が同日、発表した。1961年のタンガニーカ独立時に首相、ザンジバルとの統合で初代タンザニア大統領となり、「タンザニアの父」「先生」などと呼ばれ国民から慕われた。85年の引退後は、アフリカ各国指導者の顧問格として存在感を示していた。

 ニエレレ氏は昨年8月に白血病と診断されたが、最近までブルンジ和平の調停役を務めるなど活躍していた。9月初め、健康診断のためにロンドンに行き、その後容体が悪化した。ムカパ大統領によると、9月末ごろから会話ができなくなり、危篤状態に陥り、数日前から脳死状態となり発作にも見舞われていたという。

 ウガンダのマケレレ大を卒業後、教師を勤め、54年タンガニーカ・アフリカ民族同盟(TANU、現タンザニア革命党)を結成し、議長に就任。61年タンガニーカ首相、翌年12月に同大統領となり、64年ザンジバルとの連合でタンザニア初代大統領に就任した。

 大統領時代、スワヒリ語圏アフリカでの共同体社会の生活様式「ウジャマー」(家族共同体的な愛)から、他者の尊重、基本的な財の共有、労働の社会的義務といった要素を取り出したウジャマー社会主義を導入。67年のTANU党大会で採択されたアルーシャ宣言で、農業共同化を核とする政策を本格的に進めた。しかし、内外の要因に阻まれて農業生産は高まらず、80年代半ばに挫折。社会主義経済から市場経済へ転換したうえで85年10月引退した。一方、ニエレレ時代に、就学率の向上や生活環境の改善に一定の成果があったことなどから国民の尊敬の念は高く、60年代のアフリカ諸国独立時代の代表的な指導者として国際的にも著名だった。

 ニエレレ元大統領が亡くなってからの影響

 とりあえず政府は一ヶ月喪に服すため、お祭り毎を止める。近所のディスコの音楽も消えた。スポーツもやってはいけないらしい。
 14日の夜、タンザニアの同期隊員が急に帰国する事になったとの連絡があり、15日に上京。そのときの船の中もいつもなら映画を流すのにニエレレにちなんだ音楽や、生前の講演などのビデオが流れる。
 18日にイギリスから遺体が運ばれた。どうやって遺体が痛まない様に運んだのか謎だ。遺体は
ATT(†任国外研修旅行1†〜ザンビア編〜”出発!ザンビアへ”参照)じゃなかった、エアタンザニアで運ばれた。この日いきなりキャンセルを食らったお客は多いんだろうな。
 21日に国葬。"おかたか"は20日に仕事でまたまたダルエスへ。国葬の日を外すためにわざわざ早めに出たのだが、これが仇になった。港は政府の管理化になり、国賓のために洋上で2時間くらい待たされた。
 警察学校で空手を教えているT隊員によると、生徒はほとんど警備に借り出されて暇になってしまったそうだ。
 そして際目付けが
ニエレレ追悼カンガ。このページの冒頭の写真である。他に2、3種類はあった。

 ちょっと気になった記事

 14日に白血病のため77歳で死去したタンザニアのジュリウス・ニエレレ元大統領の国葬が21日、ダルエルサラームの国立競技場で執り行なわれた。「建国の父」「先生」と慕われたニエレレ氏のもとに愛知和男衆院議員、オルブライト米国務長官をはじめ数万人が詰めかけた。遺体は21日、故郷のブティアマ村に移される。

 どうして気になったのかなと言うと、日本からの弔問者である。タンザニアへ援助金額が一番多いのは日本らしいが、そのタンザニアのかなり影響力のある人が亡くなったのに衆議院議員程度でいいのかいな?方やアメリカは国務長官なのに…。こんなんだから日本は金を出すだけで手を汚さないなんて言われるんだ。

 今月14日に白血病で死去したタンザニアのジュリウス・ニエレレ元大統領の遺体が23日、故郷の村の自宅に埋葬された。ニエレレ氏の棺の周りには近隣から少なくとも10万人が訪れた。農業重視の経済発展には失敗したものの、貧富の格差を改善させたニエレレ氏の人気は根強く、30時間にわたり弔問の列が絶えなかった。

 その他の出来事

・皆さんは覚えているだろうか?今年の3月から続いている"おかたか"VSネズミの戦いを。(∽活動再開?∽「新たな訪問者」参照)とうとうその幕が下ろされたのであった。
 ある日、顔を洗おうと洗面所へ行くと何かいた。細いものがチラッと見えるのである。またトカゲかヤモリだと思ったが、ねずみが死んでいた。とりあえず退治成功。結局効果があったのは毒の餌だったらしい。しかしまぁでかいこと。

・とある週末。念願の初ダイビング。結構緊張した。レギュレーターの取り付けを間違えたりした。今日は2ダイブ。ザンジバルでは1、2を争うポイントだそうだ。緊張したものの、なんとかこなした様だ。魚の名前を覚えなくては。中性浮力の取り方も難しいもんだ。結構疲れるもんだね。

 


おかたかより

ニエレレ元大統領は本当に影響力のあった人で
今後タンガニーカ(本土)と、ザンジバルが分離するのではと噂が立ったりします。
お願いだから怖い事だけは起きないでねと祈る今日この頃です。

ちなみに、今回の背景はタンザニアの国旗です。


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