∽水なし生活からの逃亡∽
1999.3.20
おかたかより
いよいよ新年を迎えました。
もちろんタンザニアも休日です。カウントダウンの催しはあるもののただ日が過ぎただけです。
連休なのでもちろん僕の家の修理は進まず、水タンクもつながらず。
水はないし、学校は休みだしってんでザンジバルから逃げ出しちゃいました。
首都に逃げて数日。せっかくの休みがもったいないのでここから手軽に行ける場所に行こうと思った。バガモヨは近いし、語学訓練で行った所だが、同期の隊員の話しによるとあの時では分からなかったよい所もあるらしいので行って見る事にした。
オンボロバスが乾いた土の上を猛スピードで走って2時間。お尻が痛くなる。こっちで一つ特技が出来た。乗り物に乗ったら(座れたら)すぐ寝れるようになった。この間凸凹であろうとなんだろうととりあえず気にならない。もうすぐ到着というところで起きる。懐かしの景色がそこにはあった。停留所(?ここで降ろせと言っただけだったような…。)で降りて、課外訓練中に下痢になって駆け込んだ銀行に行ってトイレを借りる。なかなかの記憶力だ。
以前はスワヒリ語が分からず、道も聞けなかったが今は大丈夫。銀行のガードマンに
その後、荷物を置いて休んでからさっきの”H”さんの授業の様子を見に行った。ここは有名な芸術学校でスワヒリ語で
”Chuo cha sanaa”と言う。”H”さんはここで民族舞踊(スワヒリ語で”Ngoma”と言う)と、伝承楽器を習っているそうだ。この日、現地の生徒はお休みなのに、特別授業をしてもらっているとのこと。”おかたか”にはちょっと難しそうだった。話を聞いていると、”おかたか”より現地に溶け込んでいる。うらやましい。
翌日、”Y”隊員の仕事について行く。彼女は看護婦隊員で、今日は離れた村に健康指導に行くそうだ。現地について母親達を待つ。来ない。どうしたのか聞くと葬式があってみんなで払っているそうな。残念。そこへ村の娘が”Y”隊員にタンザニアの化粧(?。
Usoと言うらしい)をしてやると言うので様子を見ていた。
出来あがりは左の写真の通り。魔よけのような感じである。Usoと言う木の葉を乾かして刻んでお茶と混ぜるとオレンジの塗料になる。縁の黒いのはなんと、日本製の白髪染めだった!!なんだか皮膚に悪そうだった。
その日の夜は大晦日のカウントダウン・ディスコなるものを芸術学校でやるというので年明けに間に合うように行ったのだが途中道を間違えて”おかたか”の1999年は道端で迎えた。
結構人はいるものの、流れるのは”イリンガラ”と言うアフリカの音楽が多い。われわれは途中で帰ったものの、”H”さんと、タンザニア人達はきっと朝までいたんだろう。
逃亡先(その2)〜パジェ〜
いいかげん終わってる、少なくとも水のタンクの配管はしてあるだろうと一旦ザンジバルへ帰る。ところがどっこい。出た時のまま。しょうがないので今度はザンジバルのリゾート地へ行ってみることにする。中心地の
Stone Townからバスで東へ2時間。Pajeと言う名の海岸に”三浦砂織”さんという日本人が経営するバンガローがある。
写真は左より、”おかたか”、三浦砂織さん、従業員のハミディさん。
PARADISE BEACH BUNGALOWS.(PAJE)P.O Box 2364, ZANZIBAR, TANZANIA
TEL: 0255-54-231387
FAX: 0255-54-232327
ラマダン明け
本当は1月18日に終わるはずだったのだが、当日月が見えなくて1日伸びた。ザンジバルはイスラム教徒が多いので、ラマダン明けのお祭りも賑やかだろうというので楽しみにしていた。
場所は昔日本が援助したらしい
"遊園地"。通勤途中にあるのだが、普段は何も動いておらず、廃墟と化していると思っていた。しかしこの日、どこから溢れてきたのかすごい人出。遊園地の周りは車両通行止めにしていた。おかたかより
言い訳します。逃亡生活とは書きましたけど、本当に逃げたわけではありません。
ちょうど年末年始の休みで、工事中でもあったので旅行しただけです。
それでも他の隊員、一般の留学生、現地に住んでいる人の話を聞けてとても良かったです。
一応刺激を受けたので、新学期はみんなに負けないようがんばろうと思いました。
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