*語学研修旅行*

1998.12.25


おかたかより

爆弾テロもそっちのけで語学研修旅行へ出発。
これがまた、タンザニア生活に自信を与えてくれる。
嫌な思いもしたが、これがこいつらのやり方なんだと納得。


語学研修旅行(8月10日〜8月19日)

 語学訓練が終了すると、1人でタンザニアを10日ほど周り語学訓練の成果を試す訓練がある。
これが「語学訓練旅行」である。普段なら旅の行く先は、よほどのことが無い限り個人の自由なのだが、今回は爆弾テロのおかげで、行く先を限定されてしまった。僕の場合は始めから行こうと思っていた場所だったので問題は無かった。
 語学訓練終了の翌日、タンザン鉄道の切符を買いに行った。アメリカ大使館の横を通ったが、あまり大騒ぎはしていない。期待外れと言うか、なんだか不思議な感じだった。旅行に先立ち買い物をしたが、日本から持ってきたほうが良かったと思った物の一つに防寒着があった。アフリカに来ると言うイメージでは決して寒くないと思いこんでいたが、これまた高地は寒い。広い国だけあってもっと慎重に荷物を選べば良かったと後悔。

 8/10、11:15「タンザン鉄道」(タンザニア〜ザンビア間)は出発した。ぼろぼろの中国製ディーゼル機関車で寝台の客車を牽引する。24時間の旅の始まり。トンネルに入ると真っ暗。15:00ごろセルーの国立公園の中を走る。野生のシマウマ、ゾウ、キリン、イノシシ、水牛、インパラ、ヌウなどを見ることができた。夜、暗くなりコンパートメントに灯りが燈る。へぇー電灯が点くんだ。昼飯で食べたワリ・クク(御飯と、鶏肉の揚げたもの)はおいしかった。トイレは昔の日本のように穴があいていて線路に落とすだけ。空は晴れているのに時々窓から首を出すとポツッと液体が来る。さて・・・?
 食堂車もある。2等席はボックスの六人がけ寝台。駅に止まるごとに物売りがやってきて。つい買ってしまう。どうも食べてばっかりのようで、腹がいっぱい。23:00、ベッドを作る。最上階のベッド。防犯対策をしっかりして寝る。

 

 ルートはムベヤ、イリンガ、ドドマ、タンガ、ダルエスサラームと回った。(右の写真はムベヤのある交差点にて。タンザニアとJICAの親睦のしるしらしい。)
 ムベヤからイリンガに行く時のこと。朝5:00ぐらい。バスの出発時間が迫り、急いでバスステーションへ。外は暗い。自分が乗る予定のバスを探しているとあるタンザニア人が、
おまえのバスはこっちだ乗れ!と腕を引っぱりあるバスに乗せる。僕が乗ったとたん。違った。間違えた!・・・えーとちょっとチケットを見せろ・・・ん?おまえのバスはもう出てしまったぞ!タクシーに乗れ!!と勧める。怪しいのでちょっと待て!と口論していると、ある青年が、こいつらは嘘つきだから気をつけろ!と助けてくれた。ここで教訓、「時間前行動厳守。」いつでも時間には余裕を持ったほうが良い。 バスはうわさ通り飛ばすこと飛ばすこと。あんなオンボロで、道は凸凹でいつ事故ってもおかしくない状況だった。約5時間の旅、途中トイレ休憩一回。

 

 イリンガではイシミラ遺跡と言う場所へ行った。ここで偶然であったオーストリアからの若いカップルと周る。正直面白くなかった。が、男の方は昆虫採集家で、新種を発見して自分の名前をつけるのが夢なそうな。その大きな夢に少し尊敬する。(写真はイシミラ遺跡。左の石柱の下に”おかたか”がいる。)

 イリンガからドドマまでは8時間ぐらいと聞いていたが10時間以上かかった。朝から腹の調子がおかしく、下痢の気配。2時間後のトイレ休憩まで待ったが、そこはもちろん草原。まだ大きい方をする度胸も根性も無い。結局「ワカ末」を飲んでこらえた。ある先輩隊員がワカ末の効きは最高で、隊員の必需品だ。と言っていたのが良くわかる。涙が出るほど、抜群の効き目だった。

 

 ドドマ〜タンガではバスの調子がおかしくなり、挙句に止まる。エンジンルームを開けて、溶接器を出して何かしている。こりゃ、このへんぴな村で一泊だな。と覚悟をするとなんと直った。どうしたんだか不明である。タンザニア的に言うと「動きゃいい。」(写真はドドマのある小高い丘。)

 タンガはなんだか通過しただけでダルエスに帰った。無事帰ってきて良かった。
どこの町でも
最後には親切な人にゲストハウスを案内してもらったりした。世の中悪い奴ばかりではないな。

 

 


おかたかより

まだ協力隊生活は始まったばかりですが、帰ってきたときはもう終わりのような安心感がありました。
また、この旅行で、ちょいと痛い目にあった同期隊員がいたので、
皆さんも海外では防犯対策はきちんとしましょう。
今度は教育実習と、ザンジバルへの赴任を考えなくては。


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